アメリカ・インディアンの歴史」
グレッグ・オブライエン著 阿部珠理訳 東洋書林
本書の特徴は、多角的に先住民を捉える総合的な視点と、その記述内容
のバランスの良さにあるだろう。アメリカ・インディアンに関する歴史書は、時と
して先住民を一方的な被害者として描いたり、中立を目指すあまりヨーロッパ
の植民地主義の加害性を充分に明らかにしない態度をとったりするものもあっ
た。本書は、ヨーロッパ社会とのコンタクトがもたらした先住民社会および文化
の変容の要因と過程を、できうる限り公正に記述するという姿勢に貫かれて
いる。
例えば、インディアン社会の衰退を考える際、その背景として伝染病や白人と
の戦い、ヨーロッパの市場経済に巻き込まれる過程で激化する部族間抗争、
諸部族間の伝統的な敵対関係を利用して植民勢力を拡大しようとするヨー� ��ッ
パ諸国と、彼らへの先住民部族の自主的な協力などがあげられる。ヨーロッパ
植民勢力の明白な先住民劣等視と彼らの際限ない強奪の一方で、それを容易
にした先住民社会の分断と分裂も明らかになる。そしてそれらが、地域によって
異なる先住民部族社会に共通する歴史であることが納得される。
(本書 訳者あとがき より引用)
アメリカ・インディアンの抵抗史
J・コスター著 清水和久訳 三一書房
この本の原著は、米国のジャーナリスト、ジョン・コスター氏が日本人の読者
のために書いた約800枚のタイプ原稿である。(中略) この本の前半が、過去
の調査や研究に多くを負っていることはあきらかだが、事実の提出の仕方や
捉え方、組み合わせ方には独特のものがある。そして、いうまでもなく、圧巻
は後半である。いわさか冗漫で未整理な記述もあるとはいえ、コスター氏が
1960年代後半以降のインディアンの抵抗運動に共感しつつ、自分の目、耳、
足で現場で取材し、抵抗者と交流した他に得難い記録がここにある。1970年
代に入って、日本の読者にも、ディー・ブラウン「我が魂を聖地に埋めよ」(鈴木
主税訳 草思社)、藤永茂「アメリカ・インディアン悲史」などをはじ� �として、
いくつかのすぐれた書物が手に入るようになったが、最近10年間のインディア
ンのたたかいをこれほど詳しくまとめあげた本は、当の米国にも見当たらない
のではなかろうか。前に記したように、コスター氏には、この本にもしきりに登場
するロバート・バーネット氏との共著「ウンデッド・ニーへの道」があるが、氏は
過去6年間、インディアンの抵抗運動に強い関心をもって報道してきたジャーナ
リストで、氏の書く記事は北米新聞連盟のシンジケートを通じて、米国やカナダ
の読者の手に渡っている。訳者は「ニューズウィーク」誌や、インディアン自身
の新聞「アクウェサスニー・ノーツ」紙などで、氏の文章を読んだこともある。
「ウンデッド・ニーへの道」は74年6月の発売から 一年間に10万部以上売れ、
著者は、「シグマ・デルタ・カイ賞」を受けた。「報道部門における公衆への貢献
顕著」が受賞理由だったという。
(本書 訳者あとがき より引用)
ロナルド・ライト著 香山千加子訳 植田覺監修 NTT出版
原題が示すように、著者はコロンブス以後の500年間の歴史を、南北両
アメリカ大陸先住民の記録を通して問い直している。勝者の側から書かれた
従来の歴史は、コロンブスの「発見」を人類の輝かしい瞬間であったと教えて
きた。しかしアメリカ大陸の先住民にとっては、これが侵略の始まりであり、
今日まで続く長い抑圧の歴史の第一ページであった。1492年のアメリカ大陸は、
全世界の約五分の一の人口を擁していた。それらわずか数十年を経ずして、
海を渡って運び込まれた疫病と、異邦人による虐殺の犠牲となって、ほとんど
の先住アメリカ人が姿を消した。ヨーロッパからやってきた侵略者たちは、巨額
の富を手中にし、偉大な芸術を破壊し、大陸そのものを奪った。しかし先住民族
の� �べてが死に絶えたわけではなかったし、彼らの歴史が消滅したわけでもな
かった。著者ロナルド・ライトは、アテスカ、マヤ、インカ、チェロキー、イロコイの
五民族を取り上げ、先住民の言葉で語られた彼らの歴史を、我々読者の目の
前に展開している。アジアやアフリカの場合と異なり、アメリカ大陸には侵略者が
居すわり続け、今日に至っている。両大陸のほとんどの国々で中心を成している
人々は、ここに腰を据えたヨーロッパ人たちである。しかし、アンデスにはインカ
の言語を話す1200万人の人々が住んでいる。また、もしグアテマラが多数決制
を採用していたなら、マヤ共和国が成立していたであろう。現在ペルー政府を
悩ませている極左ゲリラ・センデロ・ルミノソの虐殺行為は、ピサロによ� ��
アタワルパ虐殺の物語の一部であり、1990年カナダのオカにおけるモホーク
の暴動は、かつてカナダがイロコイを裏切ったことに端を発している。15世紀
から1990年までの五民族の歴史を、多くの先住民の生の言葉をちりばめな
がら描き出している本書は、「勝者の語る歴史」にしか触れる機会のなかった
多くの読者に、驚きと新たな視点を与えてくれることと思う。
(本書 訳者あとがき より引用)
L.H.モルガン著 青山道夫訳 岩波文庫
以上に述べた四種の事実は、野蛮状態から文明に至る人類進歩の行程に
沿うて平行して進展するものであり、本書における論究の主題を形成するもの
である。われわれが、アメリカ人として特別な義務のみならず特別な興味をも
有する研究の一領域がある。アメリカ大陸は物質的な富の豊富なことで有名
である。それはまた、未開の大時期を例証する人種学的、言語学的、考古学
的資料においても、あらゆる大陸において別々ではあるが斉一な経路をすす
み、人類のすべての部族および民族においてきわめて一様に、同一進歩の
状態にいたったのである。したがって、アメリカ・インディアン部族の歴史と経験
とは、それに対応する状態にあったわれわれ自身の遠い祖先の歴史と経験と
を、多少と もそれに近く示すことになるのである。彼らの制度、技術、発明およ
び実際的経験は人類の記録の一部を形成するものであり、インディアン人種
それ自身をはるかに超えた高度なそして特別な価値を有するのである。発見
された当時、アメリカ・インディアンの部族は三つの異なる人種的時代を示し
ていた。そして、その当時地球上において示されるどこよりもそれを完全に示
したのである。人種学、言語学および考古学の資料は比類なく豊富に提供さ
れた。しかしこれらの科学は、今世紀にいたるではほとんど存在せず、そして
現在のわれわれの間においても、その研究はわずかにしか行われていない
のである。のみならず、地中に埋没されている化石の遺物は、将来の学徒に
対しても現状を保つであろ� ��が、インディアンの技術、言語および制度の遺物
は、そうではないであろう。それらは、日々、消滅しつつあり、そして三世紀以
上もすでに消滅しつづけていたのである。インディアン部族の種族的生活は、
アメリカ文明の影響のもとに衰滅しつつあり、彼らの技術および言語は消滅
をたどり、彼らの制度は崩壊しつつある。もう数年もたつならば、現在容易に
集められる事実も、発見が不可能になるであろう。これらの事情は、アメリカ
人に対してこの大なる領域に入り、その豊富な収穫を蒐集すべきことを強く
訴えるのである。
1877年3月 ニュー・ヨーク州ローチェスターにて。
(本書 「序言」 モルガン より抜粋引用)
アメリカ・インディアンの宗教運動と叛乱
ジェイムズ・ムーニー著 荒井芳廣訳 紀伊国屋書店
19世紀のアメリカ合衆国。白人たちの「フロンティア」は西へ進行し、先住民
たるインディアンのほとんどはいまや支配下におかれていた。旧来の生活様式
を失い、不公正な行政に苦しむ彼らのあいだに、このとき一つの宗教が生まれ
る。やがてメシアが到来して、死んだ祖先たちを甦らせこの世を楽園として再生
してくれる、その実現のためには、儀式をおこない全員で踊りつづけなければ
ならない −−− このような千年王国的な信念に支えられた宗教運動が、
「ゴースト・ダンス」である。この運動がどのように展開したか、白人とのあいだ
にどんな軋轢をうんだかを、著者ムーニーは細心の観察と綿密な取材調査に
もとづいていきいきと描き出していく。約一世紀前に書かれたものであ� �ながら、
その叙述は今日でいうエスノヒストリーの先駆であり、民族誌としての<古典>
と評価されている。さらに本書は、運動展開の過程で生じた出来事として、
インディアン史上きわめて重要なエピソードである「スー族の叛乱」や「ウンデッド
ニーの虐殺」にも詳細にふれ、インディアンに加えられた迫害をなまなましく伝える。
その意味では、現在のアメリカ文化というものがいかなるエスノサイド(民族破壊
)の上に成り立ったかの、同時代における貴重な証言でもある。
(本書より引用)
トーマス・R・バージャー著 藤永茂訳 朝日選書
コロンブスのアメリカ「発見」によって始まった、南北両アメリカの先住民に対す
る五百年の残虐の歴史は、まことにすさまじい。まさに「テリブル」である。この
コロンブスの影、ヨーロッパの白人たちの影は、黒々と今も南北のアメリカ大陸
をおおっている。しかし、本書を読むことで、あらためて白人に対する怒りをたし
かめ、白人をさげすみ、それによって一種のカタルシスを、快感を味わうつもり
ならば、その人は失望に終わるだろう。本書では、私たち日本人も「白人」の中
に組みこまれているからである(本書第六章、第十一章)。インディアンに対する
残虐行為の昔話は読みあきた、映画でも見あきた、と思う人もあろう。ちょっと
待っていただきたい。本書の第九章を、とにかく読んでいた だきたい。バルトロメ
・デ・ラス・カサスが四百五十年前に描述したインディアンの虐殺が、今、この私
たちの時代に、グアテマラの山中で進行中なのである。インディアンの苦境に
同情し、インディアンを愛し、彼らの「自然と一体」のミスティックな生活様式に
ほれこんだ人たちに対しても、本書は、苦い薬を用意しているかもしれない。この
著者は「先住民を愛し、いつくしめ」とは、ひと言も言わない。ただひたすらに
「わが身を糾(ただ)せ」と、私たちに迫るばかりである。動物愛護の先頭を切る
と自負する人たちは、まず第一〇章を開かれるとよい。この本は、過去につい
ての書物ではない。現在について、未来についての書物である。先住民につい
て語る以上に、私たちについて語ってい� ��。問題は、人権の問題である、と著者
トーマス・バージャーは言い切る。本書の「エピローグ」は、コロンブスの大陸
「発見」五百年を機に綴られた、最も美しく力強い文章の一つであろう。それは、
四百五十年前のラス・カサスの言葉「人類は一つである」に呼応する。トーマス・
バージャーは現代のラス・カサスである。
(本書 訳者あとがき より引用)
棒高跳びのトップrankars
阿部珠理著 角川書店
本書で私は、アメリカ先住民の現在の姿を、できる限り忠実に伝えようとした。
1993年から始まった国連の国際先住民年もあって、彼らに世界的な関心が向
けられてはいるが、彼らが置かれている現実が、まだまだ充分に理解されてい
るとはいい難い。また関心の多くは、自然と共生してきた彼らの環境思想や
自然観に学ぼうとするものだが、先住民文化に対する一面的な美化や賞賛は、
むしろ彼らの全体像を見失わせることにもなりかねない。本書では、アメリカ
先住民を極力総合的、包括的な観点から論じようと努めたが、それは簡単な
作業ではなかった。世界の先住民を一括りにできないのと同じように、アメリカ
先住民もまたそうすることができないからだ。現在アメリカ合衆国には、500< br/>を超える連邦承認部族が存在する。各部族の合衆国との関係は、歴史的に
異なるし、居住地域によって生活文化の差もあり、また、本書で述べているよ
うに、部族間、個人間の経済格差も広がっている。それら差異を認めながら、
共通の被害者体験を持ち、同化政策によって甚だしい文化変容を強いられ、
近代化のプロセスでは部族内分裂を経験した民族、一方で伝統的にスピリチ
ュアルで、自然感応的な感性を共有する民族として集合的に捉えた。なにより
も、彼ら自身が「インディアン」という民族意識を涵養しつつあるという認識が、
そこにある。また彼らが置かれている環境や抱えている問題など、現代的な
課題が本書の焦点であるが、それらはもちろん歴史的な文脈から切り離すこ
とができな い。必要に応じて最小限その脈絡を論じることにした。第一章では、
先住民の出自に関する議論を紹介し、最新の統計史料に基づき、人口動態、
健康状態、経済状態、教育など、彼らの現在の生活環境をできる限り詳細か
つ広範に論じた。その際、現在議論の的になっているインディアン・カジノや、
彼らの生活基盤である保留地の重要性に目を向けた。多数の図表は、併記
した資料を基本に作成した。第二章では、彼らが抱える問題を、合衆国との
関係の上で見ていった。部族の公式承認や自治権の問題の淵源を考察し、
解決に向けての糸口を探った。そこには、リパトリエーション(遺骨、遺物の
返還)や、リコンシリエーション(歴史的和解)といった現在進行中の今日的
問題も含まれている。第三� ��では、呼称の問題や彼らの自意識の実態を取
りげた。またステレオタイプ化されたイメージの出所や、創造過程をたどりな
がら、彼らの実像を明らかにしようとした。ジェンダー・ロールや意識の問題も、
ここに含まれる。第四章では、先住民の精神文化、ことに彼らの自然観や
宗教観、信仰実践の特質を考えた。さらに物質文化の特質と合わせて、
それらを変容と創造の観点から捉え、その柔軟性や躍動性を評価した。
(本書 はじめに より引用)
酋長オセオーラとセミノール・インディアン」
ウィリアム・ハートレー エレン・ハートレー著 鈴木主税訳 現代史出版会
本書は、Osceola の翻訳である。内容は、ごらんの通り、アメリカ大陸南東
部のフロリダ半島に住むセミノール族が、傑出した若い酋長、オセオーラの
指揮のもとに、アメリカ合衆国の移住政策に抵抗して戦った記録である。これ
は、新大陸に渡った白人と先住土着アメリカ人の交渉の歴史では、第二次
セミノール戦争として知られている。独立国としての基礎固めを一応終わった
アメリカ合衆国は、この戦争にケリをつける(勝ったとは言えない)ことによって、
東部全域から先住民族をほぼ完全に駆逐したわけである(戦いの舞台� �、
このあと西部に移り、1890年のウンデッド・ニーの虐殺によって、インディアン
の武力抵抗がやむまで同じような侵略と抵抗がくり返された)。新大陸に渡った
白人にとって、アメリカの自然は、征服し、西欧文明の技術によって最大限に
利用すべき対象だった。旧大陸を食いつめて海を渡ってくる白人が、それこそ
イナゴのようにふえ、どんな手段を使ってもそれを養わなければならなかった
からである。その白人の努力を妨げたのは、きびしい気候や荒々しい自然
だった。しかし、それよりももっと大きな問題は、自然を征服すべきものとは
考えず、そこにとけこんで暮らしている先住民であり、その生き方だった。その
後の両者の交渉の歴史を、ここでくわしく述べる必要はあるまい。白人は 、恫喝、
懐柔、詐欺、殺戮など、あらゆる手をつくして、土着アメリカ人の土地を取りあげ
ようとした。当然抵抗が起こり、それは軍事力を駆使してのジェノサイドにつな
がった。
(本書 訳者あとがき より抜粋引用)
ロバート・A・トレナートJr著 斎藤省三訳 明石書店
全寮制のフェニックス・インディアン学校は職業教育を中心として、先住民の
子供を白人社会に同化させることを目的とした学校である。はじめの40年間、
主な目標はインディアンの若い子供を昔ながらの生活から切り離し、彼らを
伝統文化から遮断し、彼らに白人中産階級の価値観を植え込むことであった。
「同化」と一言で言っても、その意味するところは1890年から1930年にわ
たって繰り返し変わっている。絶えず変更される連邦政府の教育政策のおか
げで学校の目標がその時々によって変わってしまう。そういう意味では学校
運営も国家の動向と基本方 針に左右されるものである。本書の基底にある
ものは変化してやまない同化教育の方針と、その方針が具体的にフェニックス・
インディアン学校にどのように適用されていったかの実態を掘り下げ、報告す
ることである。・・・・本書「まえがき」より引用
エドマンド・ウィルソン著 村山優子訳 思索社
本書はエドモンド・ウィルソン著の全訳で、原著は著者緒言にも述べられて
いるように、かつて「ニューヨーカー」に数回にわたり掲載されたものに若干の
修正を加えて単行本として刊行されたものである。内容は一見イロクォイ族の
現状のルポルタージュという形式をとっているが、単に事実の記録と報告に
とどまらず、著者の一貫した産業文明に対する鋭い批判と人間へのたゆまぬ
関心が文明および文明社会を無批判に賛美する人々に対して挑戦的とも言え
る姿勢で問題を突きつけているという点が、本書の高く評価される所以であろ
う。また最初の部分に、これも「ニューヨーカー」に既� ��掲載されたジョーゼフ・
ミッチェルの短いがすぐれたモホーク族の報告を収録してあるが、これも現代
文明へ適応してゆこうとする努力と伝統的文化への断ち難い思いの間で揺れ
動き、さまよう現代のインディアンの姿を真摯に、また温かい共感をもって描写
しており、それを併せて読者に呈示することによって現代文明に対する疑問を
投げかけている。(中略) 著者が、本書を著すに至った最初の動機は、この
ニューヨーク州の先住民イロクォイ族の土地係争問題への関心であった。そし
て直ちに、イロクォイ族が<州あるいは連邦>政府の不正義の犠牲になって
いることを悟り、彼の知的好奇心と正義感をこの問題に捧げたのである。本書
の中でイロクォイ族の各保留地における土地係争問題の経� �が非凡な冷静さ
と明敏さをもって記述されている。しかし本書の内容を非常に豊かにし、かつ
奥深くしているのは、単に土地問題を中心とする人種・民族間抗争という視点
にとどまらず、近代文明対伝統的文化、国家(ないし州)権力対市民の権利と
いう視点に立ってこの問題を把握しようとしたことである。
(本書 訳者あとがき より引用)
スー族の酋長が記したアメリカ・インディアンの歴史
D・チーフ・イーグル著 神田栄次訳 誠文堂新光社
題名の「ウィンター・カウント」(冬の計算)とは、アメリカ・インディアンの部族
の暦のことである。彼らは一冬越して一年が過ぎると考えた。一年間に自分
の部族に起こった重大な事件から一つを選び、それを酋長または長老が、
なめした鹿皮の裏面に絵や符号で描き、後日の覚えとして残した。したがって
一つの絵は一年を意味した。それが「ウィンター・カウント」である。文字がな
かった時代だったからである。この物語は今から約120年ほど前、新大陸で
の白人のインディアン征服時代の事件が主題になっている。ことにスー族、
シャイアン族が中心になった騎兵隊との戦いや、新生活に対する戸惑いなど
が展開されている。彼らは正直なるがゆえに、また無知であったがゆえに、
ある いは白人達の物の考え方に対して不慣れであったがために、欺かれ、
略奪され、殺されて征服される。そして先祖伝来の土地から追われ、居留地
に押し込められる。そのために生来自由なインディアン達は、征服者の白人
と交渉し拒絶され、そして戦い、居留地から脱走して飢えや寒さとも戦いなが
ら自由を求めて逃避行を続けたが、力尽きて降伏するといった歴史、また
新しい宗教や生活に対する不安、戸惑い、疑念などが生々しく書かれている。
登場する主な人物はすべて実在した人物であり、物語は事実に基づいて書か
れている。
(本書 訳者あとがき より引用)
ラからphilippensまで何マイル
スティーブン・J・クラム著 斎藤省三訳 明石書店
大盆地方に住むウエスタン・ショショニの人々の歴史について書いたこの本は、
14年にわたる研究調査の成果である。研究調査は私がユタ大学の歴史学を
専攻していた学生であった1978年に始められたものである。私の博士論文は
ニューディール政策の大盆地方ショショニに及ぼす影響についてのものであった
が、当時から私自身が属する部族に強い関心を持っていた。1983年にその
博士論文を完成させると、すぐに私の頭の中ではウエスタン・ショショニについ
ての全体的な歴史を書いてみよう、という思いが起こり、その後消えることはな
かった。この研究はそういう私の思いの到達点である。(中略) この研究で私の
取った方法は歴史学的なものであるが、ある程度は民族史的なものであ� �。
民族史は人類学と歴史学を結びつけ、その結果出てくるものが文化史となる。
ショショニ史の文化的側面を強調するために、私は人類学的な史料を利用し、
またショショニの人々にも面接し、取材した。私はまた昔から伝わる史料を利用
した。特に、国立公文書館とその地方分館に保存されている内務省インディアン
問題対策局(BIA)の未発表の通信文書類を利用した。私の研究は年代順に
進んでいるが、大部分の章はいくつかの節に分かれ、特定の年代、テーマ、
話題を扱っている。私の研究の多くはその重点を連邦政府がウエスタン・ショシ
ョニの人々をどのように扱ったか、また19世紀中盤から現代に至る間、ウエス
タン・ショショニと圧倒的なアメリカの白人文化とがどのようにかかわっ ていたか、
に置いている。ちょっと見たところではこの方法論は古めかしく思われるかもし
れない。インディアン政策を主に扱うからである。しかし、私の研究は従来のも
のとは二つの点で異なっている。それというのも以前の研究は1990年よりはる
か前の時期までしか扱っていないからである。第二には、私の研究はいわば
「草の根」の研究である。連邦政府の政策に対するショショニの人々の反応を
視野に入れているからだ。私の研究はその土地に住むインディアンの視点から
見たもので、従来発表された研究の裏返しとも言えるだろう。
(本書 まえがき より引用)
ジャック・M・ウェザーフォード著 小池佑二訳 パピルス
「アメリカ先住民の貢献」は、この表題からも明らかなように、アメリカ大陸の
先住民であるインディアンとかインディオと呼ばれる人々が、世界中に数多くの
贈り物を与え、いかに世界の文明の進歩に貢献したかについての著者の知見
を、様々な方面から叙述した著作である。1992年にコロンブスのアメリカ大陸
「発見」からちょうど500年を迎えたが、新大陸が旧大陸に及ぼした影響に関し
ては、これまで断片的な著作・記述はあっても、本書のように多岐にわたる影響
をまとめた著作はなかったと言えよう。その意味で、両大陸間の交流史に関す
る優れた書物ともなっている。米国で刊行されると少なからぬ反響を呼び、この
種の本としては異例の売行を示したというのもうなずける。とこ� �で、原題の
「インディアン・ギヴァー」という言葉は、米口語で、「返礼を目当てに(あるいは
その品を返してもらうつもりで)贈り物をする人」を意味するのだそうで、したがっ
て著者は、こお否定的な言葉を逆手にとって自著のタイトルにしている。実際に
はアメリカ大陸先住民は、世界の文明にあれほど貢献したにもかかわらず、そ
の功績が認められることもなく、却って虐待され無視されてきたのである。(中略)
さて、トウモロコシやジャガイモ、トマト、チリ、トウガラシ、タバコなどのアメリカ
大陸原産の作物が、ここ500年間に地球上の各地に広まり、旧大陸の住民も
大いに恩恵を蒙っていることは、よく知られた事実である。だが、アメリカ大陸
の先住民が世界に与えた贈り物は、その ような栽培植物だけに留まらない。
著者はまずボリビアのポトシ鉱山の銀から説き起こし、北米の毛布、新大陸産
の木綿、染料、ゴム、またジャガイモ、トウモロコシに加えて、やはりアメリカ大
陸原産のマニオク、サツマイモ、さらにはチリ・トウガラシ、トマトなどの野菜
(調味料)にまで話が及んでいく。これらの品々は、ヨーロッパにおいて資本主
義の勃興、産業革命、人口増加、料理革命などを惹き起こす重大な要因に
なったのである。一方、そのような原材料でなく、先住民の農耕技術や社会
形態の優れた特徴をも採りあげ、特に後者がヨーロッパ思想界やヨーロッパ
入植者に与えた影響を詳述し、中でも北米のイロクォイ同盟の政治機構と米国
の憲法との間の密接なつながりに言及する。
(本書 訳者あとがき より引用)
W・T・ヘーガン著
西村頼男・野田研一・島川雅史訳 北海道大学図書刊行会
アメリカ史上のさまざまな出来事は、ヨーロッパ人が「空の」大陸にその文化
を運び込んだという特殊な事実に基づいて説明するのが普通である。インディ
アンが思い起こされるのは、その存在によってこの大陸が全くの空ではなかっ
たことを証明する人びとがいたことに気づいた後のことである。インディアンは
しばしば、厳しい気候、野獣、未知のはるかな道程などとともに、荒野で待ち
受けているかもしれない災難の一つとして考えられた。私たちは彼らを、不用
意な旅行者を連れ去り、幌馬車を襲い、カウボーイに挑みかかる者たちとし
て記憶するように教え込まれている。かくて、インディアンとはアメリカの進歩
という円満に回る歯車に食い込んだ砂粒以外の何ものでもないかに思われ� �
くる。インディアン自身の側から見れば、アメリカ合衆国の興隆は全く異なる
様相を呈していた。それは、長い歴史と多様な形態を持つ一定の文化圏に
対する、遠方からやってきた統率のとれた侵略者による迫害と征服と破壊と
を意味した。私たちは、アメリカの歴史は被圧迫民族のさまざまな屈従のうえ
に成立した他の諸帝国とは対照的なものだと考えようとする。だが、現在の
旧植民地諸国民の眼から見れば、アメリカ・インディアンの運命は、アジアと
アフリカで異なる役者によって演じられた劇の北アメリカ版にすぎないと思え
るだろう。本書においてヘーガン氏は、賛嘆すべき明快さと簡潔さで、文化
衝突の物語を語っている。氏が焦点を当てるのは、インディアンがアメリカ
文明の進歩を� ��かに妨げたかではなく、対抗し合う力が不均等であったた
めにより一層(より少なく、ではない)酷いことになったある悲劇的な出会い
についてである。氏の主要な関心は、多種多様なインディアン社会固有の
歴史というよりは、むしろインディアンと勃興しつつある合衆国との諸関係に
注がれる。この出会いのさまざまな段階をたどり、優勢な新米のアメリカ人
たちが最も古くからの居住者たちに対して取った態度の推移を示しつつ、
ヘーガン氏は私たちに、アメリカの政治と倫理の歴史に関する試金石を与
える。なじみ深いアメリカ史上の挿話が全く違った表情を見せる。それは、
私たちの時代に解決を迫られているヨーロッパ諸国民と「発展途上」諸国と
の劇的出会いの先触れとなったのであった� �ヘーガン氏は、アメリカ文化の
各局面を私たちの過去のすべてに開かれた窓とすることを意図する「シカゴ
大学アメリカ文明史叢書」に、インディアン=白人関係をめぐる物語をアメリ
カ史の主流と関連づけることによって、新たな意義を与えてくれた。本叢書は
二種類に分けられている。アメリカ史のはじまりから現代にいたる一貫した
叙述を行うクロノロジカル・グループとアメリカ生活の多様かつ意味深い諸
局面を扱うトピカル・グループである。本書はトピカル・グループの一書である。
(本書より引用)
コロンブスと闘う人びとの歴史と現在
上村英明著 解放出版社
1993年は、国連の制定した「国際先住民年」に当たり、アイヌ民族を含め、
先住民族の権利回復運動が大きな飛躍をとげる歴史的な「チャンス」と言える。
しかし残念ながら、この日本では、「国際先住民年」に対する関心は市民か
ら行政まで極めて低い。解放出版社から、先住民とは、どういう人びとで、
その人権がどういう状況に置かれているのかという視点から、本を執筆しな
いかと連絡を受けた時には、正直に言うと、躊躇してしまった。先住民族は
北極圏から南太平洋までの世界各地で、それぞれの生活を営んでいる。
先住民族としての共通の運命を背負っているが、その歴史的背景、そして、< br/>文化や価値の独自性に至っては、実に千差万別であるからだ。そもそも、
先住民族の歴史と現状、権利を一冊の本にすることなど、それこそ、無謀
な冒険以外のなにものでもない。しかし、例え「冒険」であるにしても、誰か
がやならければならないと、しばらくして、思い直すようになった。それは、
第一に、日本における先住民族の権利問題への関心があまりに低く、ある
種の総括的な入門書が、どうしても必要であると痛感することが何度かあっ
たからである。第二に、国際的な先住民族への関心の高まりに影響されて、
先住民族の権利問題が紹介されるようにはなってはきたが、そうした紹介も、
上澄みだけをすくうことが多く、基本的な問題や、その歴史がすっぽり抜け
落ちている場合が少な くないからである。先住民族との共生は、言語や風俗、
伝承、行事それだけを取り出し、記録したり、保存したりして達成できると
思われた時代から、はるかかなたに進んでしまった。現在では、民族自決権
や土地権、資源権、環境権が世界各地で議論されており、その土俵の上で
初めて、文化や伝統の維持、発展の問題も検討されるという時代になった
のである。こうした状況を理解してもらうためには、誰かが先住民族の置か
れている世界的状況とその歴史を包括する本を書くという「冒険」を行うこと
しかなかった。
(本書・あとがき 上村英明 より引用)
トップランクの病院
青木晴夫著 講談社現代新書
アメリカ・インディアンというテーマは、非常に大きな題目で、これに取りくむ
には、いろいろなことを知っていなくてはならない。そのインディアンについて
書くには、二つのやり方がある。ひとつは、宗教、美術、家の建て方、といった
項目を追って、アラスカからアルジェンチンまで概説するという方法である。
もうひとつは、ある地域をとりあげて、その宗教、美術、家の建て方などを記述
して、次の地域へうつるという方法である。はじめのテーマ別に書いた本には、
ドライバーの『北アメリカのインディアン』などがあり、第二の地域別に書いた本
には、スペンサーほかの『ネーティブ・アメリカンズ」などたくさんある。日本の
読者にわかりやすく、数百という種族のインディアンの特色ある文 化を項目別
に叙述することは、きわめてむずかしい。わたしはいちおう地域別に、インディ
アン文化を紹介することにした。それでは、どのように地域別にみていくかとい
うと、まず北アメリカいっぱいにひろがるように、大きくひらがなの「の」の字を書
いていただきたい。この本でわたしがたどる道すじは、いまみなさんの指が通っ
た道を逆にすすむのである。そして「の」の字の書きはじめ、すなわちこの本の
終りには、われわれがよく映画やテレビで見るインディアンの所へ到着する。
その過程で映画やテレビから得られるインディアンのイメージが、どんなに歪ん
でいるかを少しでも、わかっていただけることになれば、ありがたいと思う。
(本書 まえがき より引用)
ナンシー・Y・デーヴィス著 吉田禎吾&白川琢磨訳 ちくま学芸文庫
遥かアジア人(モンゴロイド)が、ベーリング海峡が陸続きであった頃に北
アジアからアメリカ大陸に移動して行き、やがて南アメリカまで広がったと言
われている。この人々がアメリカ大陸先住民の先祖であるという説は、学者
の定説であり、常識になっている。海面の上昇に伴いベーリング海峡が出来
て以後、コロンブスが新大陸を発見するまでの期間にアジア人が太平洋を
渡ってアメリカに達した可能性は一般に否定されてきた。ところが、日本人が
13世紀(鎌倉時代)に太平洋を渡ってアメリカ大陸に到達し、やがてズニ族
の村に住み着いたのではないかという、驚くべき説を様々な角度から検証し
ようとしたのが本書である。そこに明確な証拠があるわけではないが、といっ
てこれは いい加減な大衆的な娯楽書ではない。著者ナンシー・デーヴィス博士
は、本書でアメリカ南西部先住民(ズニ族)に関する考古学、先史学、形質
人類学、言語学、文化人類学などの諸分野の研究成果を丹念に検討し、
それを日本のデータと比較して日本人渡米論を唱えたのである。これは当然
前述の定説に対する挑戦である。疑問点はいくつかあるが、この新説を真剣
に検討吟味する価値があるように思われる。
(本書 解説 吉田禎吾 より引用)
ルーシー・マドックス著 丹波隆昭 監訳 開文社出版
強制移住法案をめぐっては、もちろん、上下両院で激しい議論が交わされた。
事実、人道主義的立場から法案に異を唱える者も少なくなかった。しかし、先住民
の権利という問題に関しては、歴史的経緯として、それまでも白人側の遵法上の
「建前」と、白人優先で展開した慣例に基づく「本音」との分裂があった。司法を預
かる最高裁長官が「建前」を重んじて先住民に同情的な裁定を下しても、行政の
長たる大統領はこの問題に「本音」で臨んだのである。1830年5月の議決は、
僅差ながら法案賛成が上回り、世論が大統領を支持する形となった。そしていよ
いよ権限を与えられた政府は強制移住の実施に乗り出す。先住民たちは住み
慣れた地を無理やり追い立てられ、西方へ「涙の径」を� �ってゆくことになるので
ある。人道主義を白人優先主義が押さえ込んだ形で最終的な決着を見た強制
移住問題に対して、当時のアメリカ作家たちはどういう態度を取ったのか。特に、
強制移住支持に回った世論を背景とする白人読者社会を睨んで彼らがその
問題意識をいかなる形で表現したのか。本書はそれを論じる。我が国でもお馴
染みのメルヴィル、ホーソーン、ソロー、フラー、パークマン、そして対照的にあ
まりお馴染みでないチャイルドやセジウィックなどの作品テキストを、著者マドッ
クスは「当時の文脈に据えて」検討し、問題に対する作家の意識や作品に秘め
られた意味を明らかにしていく。たとえばメルヴィルは、先住民など形の上では
まったく登場しない「バートルビー」の主人公の 運命に、かたくなに文明化を拒否
し続け、結局は強制退去、そして死という運命を辿りゆく先住民の運命を重ね
合わせている、と著者は指摘する。「先住民強制移住」という固有の視点から、
丹念に個々の作家を検討したマドックスのこの著書は、各作家におけるこの
問題への態度、対応を明らかにするとともに、テキストの新たな読み方をも十分
な説得力をもって示してくれるものだろう。
(本書 監訳者あとがき より引用)
アメリカ先住民文学の先駆者たち」
西村頼男著 開文社出版
1972年の秋、私は藤永茂氏の「アメリカ・インディアン悲史・・・・誇り高い
その衰亡」を出版直後に、書店の店頭で見つけた。購入すると、一気に読
んだ。1960年代後半はアメリカの南部にいたから、アフリカ系アメリカ人
の存在は少しは見えていた。しかし、私の頭の中で先住民は存在していな
かった。量子化学の専門家である藤永氏の本を通して、文字を持たなかっ
た先住民が白人の侵入以後たどった歴史を初めて知った。その後、北海道
に赴任することになり、アメリカ史を専門にする同僚をまじえて「アメリカ・
インディアン史」を翻訳する機会を得た。翻訳することによって、アメリカとい
う国家の正体が少し見えてきたのは成果であった。その後、2002年に、
「ネイテ ィブ・アメリカンの文学」を編集することになった。それは以前から、
先住民の文学作品を少しずつ読み始めたが、現在、全体像を把握するに
はほど遠い。しかし、「歳月は人を待たず」で、私はこの3月末で人生の節目
を迎える。そこで、まことに拙い書物であるが、研究ノートを元にして現代
先住民文学の先駆者たちを紹介することにした。イーストマンの「インディアン
の英雄と偉大な族長たち」を紹介した部分は冗長であるが、戦士・指導者たち
の実像を知るのに役立てば幸いである。
(本書 あとがき より抜粋引用)
西村頼男・喜納育枝 編著 ミネルヴァ書房
ネイティヴ・アメリカンは、長らく文字を持たず、部族の歴史や民話などは口承
によって伝えられてきた。このため、先住民文化の宝庫とも言える民話や神話は
言語学者や文化人類学者の収集、研究の対象にされることはあっても、文学と
しての価値を認められることはなかった。しかし、60年代後半を境に、それまで
フィリップ・フルーノ、クーバー、ロングフェロー、ソロー、メルヴィルから20世紀の
ヘミングウェイ、フォークナーにいたる数多くのヨーロッパ系アメリカ人作家によっ
て「描かれる対象」であった先住民たちが、自らの声を英語によって表現する
「描く主体」としての視点を獲得していくようになる。先住民としての主体の獲得は、
主体の文化的多様性を尊重しようとする多文化� ��義の動きと不可分ではなかっ
たのである。文学研究における多文化主義的視点の成熟とともに、時代はネイ
ティヴ・アメリカン文学の口承の伝統の文学的価値を再評価し、アメリカ文学史
の正典を見直そうとする方向へと流れていった。(中略)本書は、この現代ネイテ
ィヴ・アメリカン文学の興隆におおいに貢献した作家や詩人に焦点を当てつつ、
この30年間ほどの全体像を提示することを意図している。今日活躍しているネイ
ティヴ・アメリカンの作家たちは、西洋文学に関する教養も豊富で、創作技法にも
精通しているが、それは、ヨーロッパによる侵略以降続いた異文化接触のもたら
した文化変容であるとみなすことができる。本書では、そのような異文化接触の
歴史の背景やヨーロッパ系アメリ カ人の描くアメリカ先住民関連の文学から始まり、
初期のネイティヴ・アメリカンの声がいかに形成され、現代の声へと発展してきた
かという軌跡を辿る。現代ネイティヴ・アメリカン文学は、ネイティヴ・アメリカンとし
ての感性を想像の源泉としつつ、人間としてのさまざまな普遍的テーマを描いて
いる。そこに描かれる共同体の営み、人間と人間の絆、人間と自然、そして大地
との絆に、さまざまな生命体との新たな共生のあり方が模索されている今日的
テーマを読むことができるだろう。また、白人社会と部族社会のいずれにも帰属
意識を抱くことのできない混血の若者が体験する疎外感には、ステロタイプ化され
、消費されるネイティヴ・アメリカンのイメージからは計り知れない文化の深層を
� ��いま見ることができるだろう。本書を通して、ネイティヴ・アメリカン文学という
ジャンルの包容する多様性の深みを多少なりとも味わっていただければ幸甚で
ある。
(本書 まえがき より引用)
アメリカ先住民文学
青山みゆき著 開文社出版
アメリカは、さまざまな人種や民族、階級、宗教、さらには性的傾向などを
持った人びとが複雑にからみ合い、交錯する国である。そこでは、まさに
多様な価値観と文化が共存している。これまで編まれてきたアメリカ文学史
の多くは、圧倒的に白人男性が主要な位置を占めていたが、本書は、これ
までアメリカ文学史の周縁に位置していたマイノリティーのひとつである、
アメリカ先住民が主体となった文学史である。それも、日本ではじめての
本格的なアメリカ先住民文学史である。晩年の一時期をニューメキシコ州
で暮らし、インディアン文化に深い共感を示したD・H・ロレンスも含めて、
これまでアメリカ先住民の文化に傾倒した白人のアーティストや文化人は
数多い。現代においても 、西欧文明が象徴するテクノロジーの崇拝や合理
主義、個人主義、父権制などへの反発を表現している詩人のゲイリー・ス
ナイダーやダイアン・ディ・プリマなどは、インディアン文化に深い関心を示
している。また本文でも述べたが、ジェローム・ローゼンバーグなどによる
英訳の先住民口承詩選集「ガラガラを振りながら」は、一部が日本語に訳
されているが、いまだに多くの読者を魅了してやまない。(中略) さて、1960
年代以降のカウンター・カルチャーの流れの中で、無数の若者がインディアン
文化だけでなく、東洋の文化や宗教などに関心を抱いたのは周知の通りで
ある。そして、ヨーロッパ系中産階級の白人男性の価値観や現代の機械
文明にたいする反駁から、公民権運動やヴェトナム反戦 運動や女性解放
運動などとともに、自然保護運動が盛り上がった。もっとも、大衆が抱く、
自然に抱かれて真の生き方を保持しているというユートピア的なインディアン
文化にたいする羨望を、先住民自身はいささか滑稽さと絶望感を込めた想
いで眺めていることは確かだ。先住民は、いま自分たちが直面している問題
に敏感である。彼らは広々とした父を奪われたあげく、リザヴェーションや
都市の片隅に追いやられた生活に甘んじている。そこには差別や貧困、
さらにはアル中、失業、自殺などの問題が蔓延している。しかしながら、
それでも先住民文化が象徴する原初への帰還は、あらゆるものが無機質で
人間性を否定するかのように見える現代にあって、少なくとも来るべき未来
へのひとつの� �向を示しているかも知れない。事実、先住民自身も、新たな
世紀に入り、必死にインディアンであるということの尊厳を、そしてその精神
性を回復させようとしている。
(本書 おわりに より引用)
L・ハンケ著 佐々木昭夫訳 岩波新書
近年スペインのアメリカ征服について書かれたものを読むと、歴史家の使命
に終わりなし、また、過去を描く書物は絶えず改訂を施さるべしという古い箴言
が、真理を語るものであることがよくわかる。この改訂は新しい材料の発覚か
ら来ることが多く、また誰でも知っている資料から新しい解釈が出てくることも
ある。本書を執筆するに当って、私は、これまで利用されたことのない手稿を
含めて、当面の問題に関するあらゆる資料を動員しようと試み、また、私自身
の見解を打ち出すに先立って、従来のすべての解釈に検討を加えようと努めた。
そして、「過去は序幕である」(シェークスピア作『 テンペスト』中の言葉)から、
いや少なくとも時折はそうであるから、私は1550年の思想上の闘争が今日に
もつながる問題であることを示そうと試みた。アリストテレスの地理上の概念が
アメリカ発見に影響したことは、かなり前から知られている。だが、スペインに
よる征服期に、彼の先天的奴隷人の説がアメリカのインディオに適用されたと
いう事実が、まともに研究されるようになったのはごく近年のことである。一般的
に言って、15世紀以前には本当の意味での人種的偏見なるものは存在しなか
った。人類はさまざまに対立する人種ではなく、「キリスト教徒と異教徒」のふた
通りに分かれていたからである。ヨーロッパの、アフリカとアメリカそして東洋の
発展が局面を一変させたのであ� ��、それゆえ世界的規模で人種問題を考えよ
うとする者にとって、スペインが経験したことの詳細は大きな意味を持つ。二人
の優れたスペイン人、バルトロメ・デ・ラス・カサスとフワン・ヒネス・デ・セプル
ベダが、1550年バリャドリでこの問題について論戦を行ったことは、西欧世界
の知性の歴史における最も興味深いエピソードのひとつである。この時、一個
の植民国家が、おのれが帝国の版図を拡大するのに用いている手段は正義
にかなうか否かという問題を、公の組織によって究明しようとした。これはそれ
以前に例のないことであり、また今後とも決して起こり得ぬことであろう。また
この時、何世紀も前にアリストテレスが立てた理論に従って、一人種全体に
劣等者、生まれながらの奴隷人と� ��烙印を押そうとする、近代世界における
最初の試みが見られるのである。この問題に関する激しい論戦、その大論戦
がアメリカに対するスペイン王の政策に及ぼした影響、同じ理論を他の民族に
適用しようとする、以降の時代に見られた試み、16世紀の闘争の現代世界に
とっての意味、これらの事柄が本書の内容を成す。
(本書 序 より引用)
歴史を糧に未来を拓くアメリカインディアン
青柳清孝 著 古今書院
ネイティブ・アメリカン文化の多様性をはじめ、現在のネイティブ・アメリカン
の実体は私たち日本人にはほとんど知られていない。ネイティブ・アメリカン
は変化し、決して静止し固定されたものではない。ネイティブ・アメリカンの
歴史を考察することによって変化の内的・外的要因を探り、かつ現在の状況
を考察してはじめてその実体が明らかとされるであろう。しかし、ネイティブ・
アメリカンのイメージ、過去と現在、そして彼らの多様性について理解を深め
られるような手頃な日本語の書物はきわめて少ない。本書は、アメリカ・イン
ディアンのイメージがいかに作られてきたか、部族の歴史がいかに現代に
生かされているか、そしてネイティブ・アメリカンが直面している現代的課題は何かの三つの視点から構成されている。この本において、時間的にも空間
的にも多様性を示すネイティブ・アメリカンの姿をできるだけ忠実に伝えよう
と試みた。読者が本書からネイティブ・アメリカンの過去と現在、そして彼らの
多様性について理解を深めていただければ、それは著者にとって少なからぬ
喜びである。
(本書より引用)
鎌田遵著 岩波新書
それにたいして先住民は、アメリカ合衆国の建国のはるか以前から、共同体
や国家を形作り、独自の文明を育て、生活していた。広大な土地に住む部族
は数多く、それぞれ状況にちがいはあっても、共通していることは、白人による
植民地化と侵略行為の対象になったことだ。先住民がもとめるのは、アメリカ
社会への「同化」よりも、むしろ自分たちの文化を維持していくための基盤とな
る「土地」である。アメリカ建国の過程、もしくは建国以後に奪われた土地への
正当な補償、部族政府が連邦政府と締結した条約の履行、守ってきた土地を
どのように発展させていくかを決める主権、すなわち自治権に関連する議論は
いまも盛んだ。先住民は圧倒的な少数派であるばかりでなく、居留地や都市� �
の「辺境」に囲われ、社会のなかで這い上がっていけない構図のなかに追いや
られている。実際に、アメリカ合衆国にもっとも古くから生活してきた彼らは、
近年増加しているヒスパニック系移民よりも、奴隷として連れて来られた人たち
の子孫である黒人よりも、さらに高い割合で貧困層に属している。経済的にア
メリカ社会の最底辺にいるといっても過言ではない。多文化主義(マルチカル
チュラリズム)が提唱されて久しいが、先住民が生活しにくい現状には、彼らの
生活圏が奪われて以来の歴史が重くのしかかっている。多人種が共生する道
を模索し、「サラダ・ボウル」や「メルティング・ポット」と形容されるアメリカ社会で、
先住民のおかれた現状はどう見られているのだろうか。本書は、 侵略、虐殺、
植民地化、同化政策を一身に受け、社会の末端に追いやられながらも、民族
としてのアイデンティティを維持し、生き残ってきた先住民たちの姿を、資料分析
やフィールドワークを通して得た知識をもとに紹介する。「先住民」とはいったい
誰のことをさすのか、「部族」とはなにか、といった根本的な問題に主眼をおきな
がら、先住民の歴史、文化、社会について多角的に考えてみたい。それは、
現代のアメリカ合衆国が内包する諸問題をみつめることにつながるはずである。
(本書 はじめに より抜粋引用)
インディアンと植民者の環境史
ウィリアム・クロノン著 佐野敏行 藤田真理子訳 勁草書房
私が本書で試みようとしたことは、植民地時代におけるニューイングランドの
生態の歴史について書くことです。ここでいう歴史とは、その学問的境界が、
人間の制度---経済、階級システム、ジェンダー・システム、政治組織、文化
的儀礼---を超えて、こうした制度に文脈(コンテクスト)を与える自然生態に
まで拡張された歴史のことです。異なる人々はそれぞれに、取りまく環境との
かかわり合いを選択します。こうした選択は、人間の共同体の中だけでなく、
より大きな生態系の中でも、さまざまに行われていきます。こうした諸関係に
ついての歴史を書くには、普通の歴史的分析では、存在しても周辺的としか
みなされない人間以外の出演者たちを、舞台中央に連れ出さなければなり
ませ ん。それで、本書の大部分は、マツの木、ブタ、ビーヴァー、土壌、トウ
モロコシ畑、そして流水域の森林などといったニューイングランドの景観要素
の変化する様相を、綿密に検討することに費やされているのです。私の主題
は次のように単純なことです。つまり、ニューイングランドにおけるインディアン
優位からヨーロッパ人優位への移行は、必然的に、こうした人々の生活の
仕方に重大な変化が生じることに伴った---歴史研究者によく知られている
---のだが、それはまた、この地域の動植物群集の根本的な再編成をも含
んでいた---歴史家によく知られていない---ということです。私たちは、ヨー
ロッパ人の侵略の結果として生じた、文化面での変化---歴史家がときに
「フロンティア過程」と呼ぶも� ��---に、生態面での変化を付け加えなければ
ならないのです。あらゆることが複雑な諸関係で結ばれていたので、こうした
諸関係を適切に理解するには、歴史研究者と生態学者双方の手法が必要
なのです。歴史を書く上での生態分析の強みは、そうしなければ人の目に触
れないままにされてしまうような長期的変化や過程を明らかにする力をもって
いることにあります。このことは、私がここで行うような生産様式の歴史的変化
を詳しく検討するのに、とくに役立つのです。こうしたアプローチをとると、ある
意味で、経済は生態の下位構成体になります。こうした分析の長所を最大限
に活用しようと、私は次のように本書を構成しました。まず、19世紀初めに存在
していたニューイングランドの生態系を植 民地時代以前のものと対照すること
にします。そして、植民地時代以前のインディアン共同体の生態関係を、到来
し始めていたヨーロッパ人のものと比較します。とくに、双方の集団がどのよう
に財産(プロパティ)を所有すること(そして、生態系に境界を設けること)につ
いて考えていたかという点から比較します。それから、こうした対照点で議論に
枠組みを与えながら、ヨーロッパ人到来後に引き続いて起きた生態変化につ
いて述べていくことにします。
(本書 はじめに より引用)
エリコ・ロウ 著 生活人新書
世界で肥満・糖尿病への危機感が募っています。今では国民の過半数が
太りすぎで、三分の一以上が肥満とみなされるアメリカでは、「肥満、糖尿病
の撲滅は国家の急務」とする公衆衛生局長官の非常事態宣言が出されまし
た。さて、アメリカで一般社会に30年先だって太りだし、病みだしたといわれ
るのが、アメリカ・インディアンの社会。なかにはアリゾナのピマ族のように、
人口の7割以上が肥満になってしまった自治区もあるほどです。これまでの
研究から、アメリカ・インディアンは白人よりも太りやすく、糖尿病や心臓病
などの生活習慣病にもかかりやすいことも明らかになっています。人種的に
みれば、アメリカ・インディアンと日本人は遠い祖先を同じくする親戚民族で
す。また、歴史を振� ��返れば、千年にわたって自然の恵みを生かした自給
自足の暮らしを続け、独自の文化を築いていたアメリカ・インディアン社会が、
突然現れた白人に国を奪われ、同化を強いられ、その食生活や生き方を
変えられていった過程は、アメリカに迫られて開国、「文明開化」、第二次
世界大戦の占領時代を経て、「国際化」の波に乗り、食生活やライフスタイル
を「アメリカナイズ」させてきた日本の変化の過程と通じるところも少なくありま
せん。日本でもメタボリック・シンドロームの蔓延や子どもの肥満、糖尿病の
急増が叫ばれる現在、餓死による絶滅の危機から一転して肥満と糖尿病の
蔓延による絶滅の危機に陥り、今健全な人と社会の再生に乗り出そうとして
いるアメリカ・インディアンの警告に� �を傾けることには意義があると思うのです。
(本書 はじめに より引用)
エリコ・ロウさんのブログ「マインドフル・プラネット」
東岡耐 著 現代書館
再び問う、マルクス主義とは何か。それは革命思想ではなく、階級文明的
ブルジョア的諸原則に妥協する文明改良思想にすぎない。それは母なる
大地の支配・収奪を容認する自然征服思想である。それは有色人・異邦人
の奴隷化を正当する奴隷主思想である。それは非ヨーロッパ人の植民化・
帝国的収奪を正当するヨーロッパ帝国主義思想である。それは原始共同体
諸部族に文明化を強要する文明帝国主義思想である。それは無際限的な
「文明の進歩」を信仰する文明至上主義思想である。それは生産力の限り
なき発展を盲目的に美化する生産力至上主義である。それは原始共同体
諸部族の征服・強奪と植民地従属国人民の搾� ��・抑圧から一定の利益を
うけている植民帝国内の平民派、小奴隷主的プロレタリアートの改良思想
にすぎない。これに対して、当のマルクス主義者は目を三角にして反論する
であろう。マルクス主義こそは誰が何といおうと完全無欠の唯物思想であり、
人類の解放思想であり、普遍的な革命思想である、と。よかろう! アメリカ
合衆国という史上最悪の盗賊帝国の歴史を通じて、マルクス主義文明史観
に対し具体的にチャランケ(談判)することにより、マルクス崇拝者がつくりあ
げた輝ける偶像を徹底的に破壊することにしよう。文明社会はいまや急坂
をころげるごとく、奈落に向かっている。階級文明的ないっさいのものの
存立基盤が音をたてて瓦解しはじめた。この人類の未曾有の危機を革命的に揚棄するものは階級文明社会の、あるいは奴隷主植民社会の諸体系の
中で矛盾の解決をはかろうとするマルクス主義の中にはありえない。それは
腐り切った奴隷主帝国を根本から粉砕しようとする植民地奴隷の革命戦争、
そして汚辱にまみれた階級文明総体の解体をめざす原始共同体諸部族の
革命闘争の中にのみ存在する。赤人被抑圧人民の生きる辺境最深部に
退却し、そこから合衆国帝国主義打倒の狼煙をあげたゲバラ、その闘いを
跳躍台として、世界社会主義共和国の大義のもとに、国際革命戦争を目的
意識的に遂行する新潮流があらわれた。アメリカ盗賊合衆国に災厄あれ!
アメリカ盗賊合衆国を美化する一切の勢力に災厄あれ! 第二・第三のベト
ナム革命戦争に光栄あれ! 第二・第三の� ��トルビッグホーン戦に光栄あれ!
(本書・はしがきより引用)
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