2012年4月27日金曜日

子どもが育つ場


「子どもが育つ場としての家族の変容:共同性を失われた日本の家族」

亜細亜大学アジア研究所研究プロジェクト報告書 No.46 『現代社会における家族の変容:東アジアを中心に(I)』2003.所収

<紹介>
子どもをめぐる家族、家庭を扱う議論の多くは親の立場からの「子育ての場」という視点に立つもので、「子どもの成長の場」という視点はその陰に隠れてしまっている。この視点のあり方が、子どもの生活のあらゆる場面に浸透する社会の機能的なシステム化の方向づけにも陰を落としている。産業化、都市化、学校化などの社会の変化は一貫して機能的システム化を目指してきた。家族をめぐる様々な諸施策、すなわちその支援・育成策や問題への対処策も合目的的かつ機能的に進められてきた。しかし、そのシステム化の方向は、今日の家族の問題に対処する上で、あらためて考え直されるべき時点にあろう。殊に、これまでのシステム化が伝統的な社会関係 からの離脱、個人の自立の支援という理念を抱きながら、結果的に自立できない子どもたち、「私化」におちいる子どもたちを輩出してきた可能性がある。

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1.はじめに
家族の変容が唱えられて久しい。最近では家族の崩壊が指摘されるようになり、家族の変容も特別の段階を迎えているように思われる。晩婚化、未婚化、不倫、セックスレス、離婚率の上昇、少子化、児童虐待、高齢化と介護不在など、家族の基本的な構成を変化させる現象は数多い(1)。
他方、子どもをめぐって多くの問題が指摘されている。「キレる子どもたち」「少年犯罪」「売春」「ドラッグ汚染」「小児肥満、成人病」「不登校」「ストレス」「いじめ」。これらの要因について、学校の機能不全、地� �社会の消滅、社会の急激な変化、あるいは、マスコミの影響、食生活の乱れと栄養の偏り、価値観の乱れ等々、さまざまに分析されている(最新版・地球環境白書,1998年)。その中で家族は、教育力の低下が問題として指摘される。それだけではない。他の要因に対処する足場として、家族は必ずと言ってよいくらい引き合いに出されている。
それはなぜか、家族が子どもの誕生から成長までに関わる基本的な集団として、すなわち個人の基本的なパーソナリティを培う基礎的な集団の一つとして位置づけられるからであろう。しかし、確かに家庭、家族の変容と子どもをめぐる多くの問題との間に関わりがあるとしても、家庭、家族に直接に原因を帰するのは無理がある。今日の家族の変容をみると、家族がこれまで考えられてきたよう に基礎集団としてあり得るのか、あらためて吟味する必要が生じているからである。現在の日本社会は大きく変わろうとしており、家族の変容も、子どもの抱える問題もその動きの一コマにすぎない。家族はこうした日本社会の変化の中で基礎集団としての意味を失いつつあるのかもしれないのである。
だが一方、社会の変容は、人々の基本的な人間関係、情緒的むすびつき、日常の何気ない行為のレベルでの変容を通して現れる。そして、家族・家庭は、この基本的なレベルで個人の生活スタイルの方向付けに関わってきた。現在の社会の大きな変容は、そこで生まれ育った私たち一人一人の判断や行為によってもたらされているのである。その意味で、家族の変容を社会の変化の中に位置づけてとらえるのと併せて、家族が子ども� �成長の場として社会の大きな変化にどのように関わるのか問うことが必要である。
本稿は、「子どもが成長する場としての家族」という視点から日本の家族の変容の問題点をとらえることを目的とする。子どもをめぐって家族、家庭を扱う議論は数え切れないほどあるが、多くは「子育ての場」という視点に立つもので「子どもの成長の場」という視点はその陰に隠れてしまっているように思われるからである(2)。そして、「親」の立場からの「子育て」という視点のあり方が、子どもの生活のあらゆる場面に浸透する社会の機能的なシステム化の方向づけにも陰を落としていることを、指摘する。産業化、都市化、学校化などの社会の変化は一貫して機能的システム化を目指してきた。伝統的な慣習や人間関係で構成されていた生活� ��系が、合目的的な制度、人間関係によって置き換えられて行った。家族をめぐる様々な諸施策、すなわちその支援・育成策や問題への対処策が合目的的かつ機能的に進められてきた。
だが、そのシステム化の方向は、今日の家族の問題に対処する上で、あらためて考え直されるべき時点にあるのではないか。殊に、これまでのシステム化が伝統的な社会関係からの離脱、個人の自立の支援という理念を抱きながら、結果的に自立できない子どもたちを輩出してきた可能性があることを問題にしたい。


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2.家族の社会環境の機能的システム化
まず、戦後日本社会における家族の変容とその基本的特徴を押さえておこう。ここで重要なのは、機能的システム化の進行である。
 家族は、さまざまな社会集団の中でも基礎的な集団の一つとして位置づけられている。だが、家族が独立して基礎集団である、もしくはあったという理解は正確ではない。農村社会学や民俗学によって書き留められてきたように、日本の伝統的社会では、人々の生活は、家を単位としつつ、さらにそれを包み込む単位として構成された共同体の種々の関係や親族関係に参加することにより成り立っていた。他方、共同体も親族関係もそれを構成する家があって成り立っていた(正岡寛司,198 1年.)。相互に直接的な相補関係を保っていたのである。農繁期の共同作業、入会地の共同管理、共同体内の道路・河川の補修、種々の物資の貸し借り、性のタブー、婚姻関係とその媒介、懐妊・誕生・発育をめぐる儀式、冠婚葬祭の運営、共同体の大人による子どものしつけ、子ども組み・若者組みなどの集まり、長老の知恵の活用、共同体の運営に関わる寄り合い等々、それは生活のあらゆる場面にわたるものであったし、多くの場合相互扶助の性格を持つものであった(3)。日々の振舞いや考え方、衣食住の細部にいたるまで、この共同体の生活の慣習や風習が染み込んでおり、代々伝えられていた。
ところが、産業化に伴い離農が進むと家の生活基盤は共同体を離れ始める。職業が異なれば生活のスタイルもリズムも異なる。生活� �あらゆる場面で、共同体の社会関係、しきたりと自分の職業上の社会関係、ルールのいずれに従うかを判断しなければならない状況が生まれた。この状況は、都市化が進むと決定的になった。人々は、職業選択に応じ一日の多くの時間を家庭から離れて過ごし、あるいは家族ごと都市に移住して暮らすようになった。その結果、地域の共同体を単位とする社会関係は維持されなくなっていった。はなはだしい場合、それは過疎という現象を引き起こした。共同体を離れた家族はもちろん、共同体に残る家族も、従来の共同体の生活を支える社会関係としきたりに代わる、新しい社会関係とルールを必要とすることになった(正岡寛司1981年,p.159-193.大内雅利,1987年,p.103-130)。
そこに生まれたのが種々の機能集団であり、そのネットワーク� ��ある。こうした機能集団とそのネットワークは、かつて村落の共同体が家を基礎的な集団として単位たらしめた仕組みを、機能的なシステムとして合目的的に構成することを意味する。
社会保障制度の整備、医療機関や教育機関の設置とサービスの整備、企業単位での福利厚生制度・施設の整備が進められた。さらにこれを補うようにして衣食住の生活のあらゆる面でのサービスが商業化されるようになった。他方、家族を単位とする共同体としての地域社会での共同作業は、活動の範囲や程度が限られたものとなり、それも地域性に大きく左右されることになった。しかも基本的な傾向として、地域の共同体の作業は事情に合せて参加するものと理解されるようになった。地域の共同体が機能集団の如く捉えられるようになっていっ たのである(4)。
これに応じて、かつて地域の共同体に求められた役割、関係は、個人が各々の目的に応じて参加したり、個人的な交友によって構成される別の集団に求められることになった。合目的的にシステムが作りだされ、機能が移管されていったのである。種々の物資の貸し借りは交友関係に。性のタブーは社会一般のタブーに。婚姻関係とその媒介は学校や職場での出会いや人間関係、さらに民間業者に。懐妊・誕生・発育を含め、冠婚葬祭の儀式や運営は病院、デパート、寺社などのサービスに。子どものしつけは幼稚園や学校に。子ども組み・若者組みなどの集まりは学校を基盤とする交友関係・地域の子供会に。長老の知恵の活用は各種のマスコミ情報に。それぞれ代替されていった。父親は父親の、母親は母親の、子� �もは子どもの生活の目的と必要に応じて、職場や地域や学校に所属し、行政サービスを受け、商品化された便宜を買い、そしてマスコミを活用するのである。もちろん、伝統的な儀式は、家の観念の残存と共に生きているし、商業化されてかえって再生されたものもある。しかし、共同体を単位とした、生活のあらゆる場面にわたる社会関係、しきたり、相互扶助の体系は失われていった。そしてその過程で、家族は次第に地域の社会関係や親族関係との直接的つながりから離脱して行き、間接的な、相互性を必要としない環境、すなわちシステム整備された地域社会、日本社会の空間の中で、個々の家族と個人が生活する独立の単位として意識されるようになっていったのである(5)。
日本社会のこうした変化は、50年代後半の産業構� �の転換と高度経済成長によって始まった。そして、60年代半ばより大学進学率が向上し、団塊世代の若者たちが都市に集中した頃から決定的なものとなった。戦後民主主義の教育を受け、消費社会の愉しみを肌で知り、伝統的で質素な生活からの離脱を図る若者たちが、独自の文化を創出する存在として都市を中心に登場したのである。大学紛争、ヒッピー文化などの対抗文化を担いつつも、かれらは、経済成長とともに実現した「安定したサラリーマン生活」が組み込まれた人生設計を常に意識して生きる者たちでもあった。実際、70年代の低成長期を迎えて生活の見直しやUターンが話題になったが、かれらが都市で味わい、さらに定着して営む生活スタイル、ライフコースは、東京、大阪といった大都市ばかりでなく地方都市、さら� �農村部の若者の心を惹きつけ、伝播した。それは特定の都市の生活スタイルではなく日本社会の生活スタイルとして浸透し、日本を都市化社会へと変貌させるのに大きく寄与したのだった(6)。
そこに浮かび上がった家庭像は「ニューファミリー」と称され、「友だち家族」「男は外で仕事」「女は家庭かパートタイム」「子どもは二人」を典型的な内容としていた。しかし、これは同時に「老夫婦・若夫婦問題」「不倫」「離婚」「受験戦争」「家庭内暴力」「校内暴力」等々の問題を孕むものでもあり、その対応が迫られた(久武綾子他,1997年(2000年版),p.97-135)。70年代は、地域の時代、生活の時代と呼ばれる転機の時代でもあった。多くの地方自治体に革新知事が誕生し、国政においても子どもと女性と高齢者を対象とする福祉が争 点となった。そして80年代以後、その成果が政策として実施されて行くことになる。中でも「女性」「高齢者」「子ども」といった家族、家庭をめぐるテーマはその中核をなすものとなり、様々なシステム整備が積み重ねられて行った。ことに「男は外で仕事」「女は家庭かパートタイム」という高度成長期の家庭像は、それが生まれると同時に、女性の権利と自由の確立という観点から厳しく批判されることになるのである(目黒依子,1987年,p.177-198)。男女が等しく自立した個人として生活できる環境を整えることが、このシステム整備の理念であり、それはやがて「男女共同参画社会」という具体像をもって指向されることになる(総理府,2000年.関哲夫,2001年.)。


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3.子どもたちの社会環境のシステム化とシステム補正
それでは、親たちの生活が変わり、それを支えるべくシステムが整備される中、子どもたちの生活はどう変わっていったのであろうか。子どもの生活空間としては家族、家庭の他、特に学校、地域、情報空間が重要であるが、中でも、最大の変化は学校を中心とする生活への移行という形で現れた。子どもと学校の関係は、学歴社会、受験戦争という関心から取り上げられることが多い。だがその後の日本社会にとって基本的な問題は、むしろ子どもが育つ環境としての人間関係、社会関係が壊れて行ったことであろう。
子どもたちの生活が学校中心の生活になるに伴い、まず経済活動・家事からの乖離、家庭内での共同作� ��は減少した。農林漁業従事者や商工自営業者の家庭の場合、家族での共同作業の機会は今でも多い。それでも、かつて50年代、60年代にあった、農繁期に学校が休みになり子どもたちが田畑で親と一緒に作業するような場面はなくなっていった。子どもを労働から解放することこそが望まれた(深谷昌志,1983年,p.103-134.,朝日新聞学芸部編,1985年,p.26-27.)。子どもが勉強の合間をぬって家庭でする仕事は、役割の一部をあてがわれて単独で行う「お手伝い」となった。子どもと家族・家庭のつながりが産業化、学校化に応じて部分化し、家族・家庭から分離していったのである(朝日新聞学芸部編,1985年,p.118-120)。
学校は、子どもが一日の生活時間の多くを費やす場となり、子ども同志のつながりさえも学年や学校の行事によって左右される� �うになった(千石保,飯長喜一郎,1985年,p.101-111.)。それとともに、子どもたちの学校への不適応が生じた。70年代には子どもの学校不適応が社会問題として顕在化し、種々の対策が検討され講じられた。その結果、学校システムが整備され、学校の「総合装置化」が進められた。学校は、子どもの栄養管理、しつけ、勉学から、放課後の遊びと、生活管理に欠かせないものとなり、さらに将来設計を左右する存在となった。
子どもは地域の共同体からも離れていった。地域の祭りなど限られた場面を除き、子どもたちの近隣の人との接触は減少した(住田正樹,1987.p.210-225)。行政サービスの整備は、地域や親族の相互扶助の関係の必要性を減少させ、家族が単位として私的な生活の時空間を優先させることを可能にしたが、子どもたちにと� ��ても、それは、近隣の友だち・通年齢集団の弱体化や地域の共同作業の消滅を意味した。加えて、24時間の商業サービスが提供される都市の生活スタイル、ゲーム機や情報機器の発達と情報の氾濫は、子どもたちにとっても、時間空間と情報の私的消費を通じた私的空間への閉じこもりを可能とし、地域社会からの距離を一層大きくするよう作用した。
もちろん、地域でも学校でも、マスコミでも、こうした変化とネガティブな結果に対応すべくさまざまな取り組みが行われている。90年代後半から2000年代に入り、学校においては学習指導要領が改訂され、週休5日制が、「生きる力」「総合的な学習の時間」の確保のために導入された(日本子どもを守る会,1999年)。暴力、いじめ、不登校への対策として、学校、家庭、地域社会が一� ��となって取組むことが奨励され、地域の専門家やお年寄りが、子どもたちに通常の教科書では学べないテーマや、伝統的遊びや道具の使い方、生活の知恵などを伝えるといった試みが行われている。高等学校教育でも個性化、多様化を促進するために、カリキュラム改訂が行われ、単位制、単位互換制やボランティア、スポーツ、文化活動の単位認定が推進された。これに呼応するように、地域では、青少年の社会参加やボランティア活動の促進、地域の子ども文化の育成が課題とされるようになった。情報についても、コンビニエンスストアでの有害図書類の販売禁止、テレフォンクラブ等の風俗営業規制が、地域規模で行われている(総務庁青少年対策本部,2000年)。だが、その取組みの一方で新たな問題が繰り返して生まれてくるの が実態である。
子どもたちの生活空間は、大人社会の大きな変化に対応すべくシステム整備されてきた。子どもたちにとって最大の関わりを持つ学校の総合装置化は、正規の社会システム整備の一環として進められてきたものである。しかし、そこに不適応を起こす子どもが生まれた。そして、それを補うための対策として学校改革、教育改革が繰り返し行われている。いわばシステム補正として進められている。こうしたシステム整備は現代社会のありかたとして不可欠となっている。だが、合目的的に行われるシステム整備は常に不備なものとならざるを得ないし、予期せぬ結果をもたらすことを認識しなくてはならないであろう。それを、子どもの育つ場としての家族の変容を通して指摘しよう。


アフリカ系アメリカ人の大恐慌の写真

4.子どもの育つ場としての家族の機能的集団化
社会の変容の中で家族も当然ながら変化した。家族は、社会のシステム整備が進み地域の共同体が機能集団化し役割が限定的なものになっていったのと並行して、個々に異なるスタイルを持って生活する単位となった。さらに、家族の内部でも個人が単位となっていき、家庭生活の時空間が個人の目的に応じて細分化されていった。
この傾向は、90年代には消費社会の第二世代が世帯主として定着し始めた都市の生活スタイル、それを代表するサラリーマン家庭において顕著である。子どもが親と同じようなライフコースを選択することなく、そこで生活する家族は別々のライフコースを歩み、別々のライフ スタイルを持つことになった(野々山久也,渡辺秀樹,1999年.p.503-323)。家庭は、それぞれに異なる生活を営む個々人が集まって、必要な範囲でのみ協力し合う場となっているのである。
この変化は、家族の個々の機能の変化を通して見ることができる。家族の機能としては経済的基盤の維持や生活上必要とされる家事の遂行の他、性的関係、出産と育児、養育と教育、高齢者介護、精神的成長、情緒的安定、文化伝承などの遂行が、人間関係は、夫婦・両親、兄弟姉妹を含む男女間、祖父母・父母・子の三世代の親子間の関係と、それをとりまく親族関係が考えられてきた。そして、これらはそれぞれに子どもの成長に関わっていた。しかし、そこに変化が生じた。
経済的生産は父親と母親が家庭外で行う役割となり、家庭は消費の場と しての性格を強くした。家庭は、共同性を残しながらも。個人的な欲求を充足させる場という性格を強めた。経済的生産という共同の活動をなくした家族は、共同の仕事のために協力し合う機会を失っていった。協力の必要は、実際には家事という日常の作業の中にふんだんにあるし、妊娠、出産、育児、教育、病気・老後の介護、緊急の事故などの、人生の自明の出来事をめぐってある。しかし、こうした出来事が家庭に自明であるという認識は、次第に薄れていく。そして、できれば回避するか、外部に委託したいものとして受け取られるようになってきた。そこでは、例えば「家族介護か社会的介護か」という対比が伝統的家族像とこれからのあるべき家族像として単純化されて対比され、家族・家庭の共同性の意味が見失われてき� ��いる(7)。
性的関係の変化は、若い世代の性的にドライな意識、行動、関係や、世代を越えた離婚率の増加に指摘できる。性的モラルの変容、非婚志向など、子どもの性に対する認識や婚姻関係の理解は多様なものになっている。特定の相手と性的関係を維持することが必要か、さらにそのために家族を構成するのかしないのか、それ自体が選択の範囲の事柄として考えられるようになった。これは、現在は親の世代となった団塊の世代が60年代半ばに遭遇した、「性の解放」運動の一つの結果でもある。性の解放、女性の解放に向けて社会が動いて来た。その成果と表裏のものとして生じているのである。
出産については晩婚化・独身化傾向に伴う出生率の低下が問題視されているが、既婚であっても少子化が生じており、これが� �児、養育、教育に大きな変化をもたらしている。子どもを産むか産まないかは選択の問題となった。仮に産んだ場合でも、子育てのノウハウについて自分の親の援助があてにできない状態では、育児書や育児雑誌などから得るマニュアル化した情報・知識に頼る他ないし、保育所に預ける必要が生まれた。少数の子どもに対して投入される育児、教育の時間、費用は膨大なものとなり、家庭での育児に時間と労力をかけるのか、育児・教育を外部に委託してその費用を稼ぐのか。それが、親と子が毎日の生活の中でどのように触れ合うのかを分けることになった。
そしてシステム整備は、働く女性の増加に対応する方向で進められた。夫婦共稼ぎの生活スタイルは、日常の世話や教育を保育所、幼稚園、学校などの機関に外部化するこ� ��を前提として成り立つ。そこで、利用者の立場に立った保育所制度の改善や放課後の児童の健全育成のための事業、「働く親のための学級」「子育てひろば」「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について(エンゼルプラン)」など、児童福祉施設、制度等の体系的見直しが行われた(日本子どもを守る会,1999年)。
これらは、必要なシステム整備である。だがこうした育児・教育の外部化が、一方で家庭の教育力を低下させることも否定できなかった。そのため、家庭での育児、教育の必要性が見直され、この面でもシステムのさらなる整備が必要となった。
親が家庭で育児と養育に責任を持って関われるようにするために「育児休業制度」を義務化する「育児休業等に関する法律」が90年代初期に制定され、90年代末には� �育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」として改正された(日本子どもを守る会,1999年)。その一貫として、夫の育児休暇制度も導入された。さらに、親子の精神的および肉体的な問題への対処として、母子健康手帳に「幼児期からの心の教育の在り方について」を盛り込み、「子ども・家庭110番」、いじめ・虐待など子どもの心の問題に対応する事業、児童家庭支援センターなどが、開設あるいは創設されることとなった。また、親子が共に過ごすための方策も種々試行されている。「家庭の日」「親子教室」「大人が変われば、子どもも変わる運動」など、親が子どもと触れ合う機会を積極的に作り出す試みである。テーマには、高齢者への尊敬やいたわりを涵養する、遊び文化を伝承する、自然に� ��れる機会を体験させるなど、小家族では失われた機能を補うものが多い。特に、普段一緒にいる時間の少ない父親と共に○○をして、あるいは△△を作って過ごすことを通して「子どもの健全な成長」を促すことが、奨励されている。
家族は、出産から育児、教育まで、その機能を外部化し続け、その結果生じる問題への対応も外部化してきた。家族は、かつてのような多面的総合的な総合装置ではなく、愛情関係に基づく精神的成長、情緒的安定を残された唯一の独自の機能とする合目的的な集団となった。家族は合目的的に作り出された外部システムを利用しつつ、個人が最小限の共同性を保つ集団となっていったのである。


5.家族の機能化の子どもにとっての意味
大人を中心として家族を捉えれば、こうした家族観の変化や家族の諸機能の外部化の多くは正当化できよう。それは男女、特に女性にとって、「家」や「家庭」に縛りつけられてきた弊害からの解放の方策として必要と考えられる。子どもの育成は一家族、一家庭にすべてを任せきれるものではなく、社会の維持存続という視点からも社会が育てるべきものである。そもそも家族だけが独立して基礎的集団であり得たことは、かつても無かったし現実にもそぐわない。その意味で、子どもを育てるための社会環境のシステム整備は必要である。
では、家族の一員として生まれる子どもにとってこの機能化はどのような意味を持つのであろうか。子� ��もの成長の社会的基盤の整備という意味では、機能化は、親にとってと同じように子どもにとっても必要なものであった。また、子どもにとっても、家族が愛情関係に基づく精神的成長、情緒的安定を与えることは基本的な要件である。だが、それに留まらない。幼い子どもにとって家族はその生活のほとんどすべてを成り立たせる基礎的な集団の一つである。すでに親にとっては特定の機能のための集団と化した家族も、子どもにとっては、少なくともその初期においては基礎的集団としての総合的な意味を持つ。家族・家庭は、子どもにとって成長の場なのである。家族の機能的集団の性格、基礎的集団の性格、そのいずれを原点とするか、そこに「子育ての視点」に立つのか「子どもの成長の場としての視点」に立つのかの違いが� �る。
この違いを踏まえてこれまでの日本社会における家族・家庭をめぐるシステム整備をとらえ直すと、やはり基本的に「子育ての視点」に立っており、「子どもの成長の場」という視点を充分組み入れたものとは言い難い。現実に、「子育ての」ために機能的に整備されたシステムは、家族の基礎的集団としての機能の外部化を促進し、基礎的集団の性格を希薄化させることに多く貢献してきた。であるからこそ、その結果として「家庭の日」「大人が変われば、子どもも変わる運動」など、親子が共に過ごすための方策を取らなくてはならない状況が生まれたのである。
しかし、実際に家族の機能として残されたのは、夫婦・親子という人間関係、愛情関係に基づく安息や精神的成長である。親子が家庭で共有したいのは、の� �びりとした楽しい時空間である。そしてそれは、テーマパークや旅先の商品化されたサービスで楽しい時空間を消費したり、あるいは、例えば父親はゴルフ、母親はショッピング、子どもはゲームと、個人化された欲望を各々が追求する形で実現してきた(藤崎宏子編,2000年,p.99-102.)。高度成長期以来、親が子どもを貴重な存在として保護し養育したいという思いが、消費行動を通して具体化された。そこに、子どもの消費欲が開発され、親子が相互に欲望を開発しあい追い求めるという循環ができ上がった。この循環は、消費社会の第二世代が親として登場する時期を迎えている。子どもは消費社会の第三世代としてこの循環の中で成長しているのである。家庭は今や互いに楽しみを求める場であるとともに、消費を巡って親と子が競い牽� ��しあう場となったといえよう。
こうした実態の中で、親子の触れ合いを促すイベントや運動はどこまで効果があるであろうか。本来、家族形態、親の生活スタイルが変わったのであれば、共働きの夫婦同様、子どもたちにも新しい協力のあり方が積極的に模索されてしかるべきであった。子どもたちが家の重要な働き手として位置づけられ、子どもたちも自覚を持って役割を果たすことが、必要である。だが必ずしもそうはなっていない。教育の過熱現象が生じ、むしろ勉強を理由に保護されるのがあたりまえとされ、正式な家事分担をはじめとして、日常的な協力関係がかえって期待できない状態があることが重要である。皮肉にも、自立を願って"自分のことは自分で"としつけた予期せぬ結果として、"自分のことだけ"考える 子ども、"自分がしたいことをするために、最大限のサービスを活用する"態度を育んできたことも否めない。
その結果、親子間に新たな寄生関係さえでき上がっている。親は子どもの面倒を見続けたい、子どもと一生楽しみを分かち合いたいと考え、子どもは、その親をあてにする。この寄生関係の成り行きの一つとして、未婚化社会を捉えることができる(宮本みち子,岩上真珠,山田昌弘,1997年.)。そこまで行かない年齢でも、子どもは親に面倒を見てもっらてあたりまえ、親も子どもにできる限りの援助を惜しまず、かつまた老後の面倒をみてもらうことをいさぎよしともしないパターンが多いという(藤崎宏子編,2000年,p.198-200.)。社会に出て働くようになっても、子どもは経済的負担を軽減するために親と同居しつつ個人的な夢や 楽しみのために消費する。都市に多い未婚化社会の現象は、まさに日本社会が目指してきた、機能的な都市の生活スタイルの成果と考えられる。
地域においても人間関係、ネットワークの見直しが必要になっている。しかしそれも、「子育ての視点」に立って、家族の機能の外部化とその補完としてのネットワーク作りという図式で考えられているとすれば、木に竹を接ぐようなものであろう(8)。何が求められるのか。子どもが育つ場として必要な総合装置としての家族の意味をもう一度とらえ直すこと、社会と家族を機能的に役割分担させるのではなく、それぞれに役割を持った総合装置として関係づけることであろう。そのためには、家族において、基礎的集団の核である共同性を再構成することが必要である。個人は他者と共同� �を持つことによって個人として存在しうる(門脇厚司,1999年.)。この社会性の基本的な理解を欠いた時、他者は機能的な効用でしか捉えられなくなる。一人一人が自立して生きる個人化を理念として掲げたとしても、この共同性を忘れた時、個人はバラバラの私になる。子どもの成長の場が機能的に分割されるのでなく総合的な共同の場となること、子どもが共同性の意味を学んで成長することが必要でろう。


6.子どもの家族観の今
子どもたちは、家族の変化をどのように受け止めているか。最後に、この機能的集団化の問題点と共同性の必要を、子どもたちの家族観を通して指摘しよう。
 現在の家庭のあり方を、子どもたち自身も必ずしも楽しく過ごす場とは受け止めていない。アジア3カ国欧米2カ国の比較を行なったある調査によれば、日本の子どもたちは、自分の家族について、「経済的に豊か」という項目の評価は相対的に高かったものの、「家族が仲がよい」「お互いに助け合う」「近所とよくつきあう」「親戚と仲が良い」「みんなが幸せ」などの項目ではいずれも最下位の評価を示した(深谷昌志,深谷和子,望月重信,田村毅,1994年,p.34-37)。また家の居心地についても「愉しい」� ��のんびり」するという項目への否定的評価の割合が高かった(同,p.38)。極端な回答を好まない日本人の傾向を考慮したとしても、他に比して総体的に高い評価は示されていない。家庭はあまり楽しくないのである。
 この調査結果については、さらに「お互いに助け合う」「近所とよくつきあう」の評価が絶対的に低いことが注目できる。別の調査にも家族が「まとまっていない」という評価が多いとの結果が出ている(深谷和子,船越恵子,1990年,p.14-15.,深谷昌志他,1994年,p.26.)。これらの項目は、家族が身の回りの人とどのように相互のやりとりをしているか、協力関係があるかに直接関わるものであるが、こどもたちの眼から見ても、家庭内の個人化は顕著である。家族が互いに、個々の細分化された時空間を忙しく飛び回って過ごし� ��いる。そしてその間に、他者との関係作り、生活に必要な知識・知恵、技術・技能などのいわゆる社会性や社会力の体得の場が確実に失われていることを示している。消費を通して個人的に追い求めることに気を奪われ、楽しみを、家族が協力して何ごとかを成し遂げることに見いだすという形では求めて来なかったのである。
 少子化した家庭では、共感を抱く、精神的に競い合う、耐えるといった社会的スキルを学習する相手となる、兄弟・姉妹がいない場合も増えている。保育所、幼稚園・保育園での集団生活が、家族や家庭内の教育に代わってその学習の場と想定されているが、それは、「家族の人間関係」や「家庭内の協力する作業」についての学習に関して、家族、家庭にとって代わることはできない。あたりまえのこと であるが、養育、教育の一部の機能は外部のシステムに任せられても、家庭内の協力関係、地域での協力関係は外部化できない。にもかかわらず、それができるかのごとく受け止められてきたのが、日本のこれまでのシステム整備の実態なのである。
 子どもは現実の家族を見て育っている。人気漫画アニメの幼稚園児の「ままごと」シーンでは、子どもたちが、親の毎日の厳しい社会生活や人間関係をせきららに真似する場面が描かれる。これは作者の眼で見た、ませた子どものカリカチュアライズされた姿である。けれども、それを子どもたちがあり得ることと見ているのも事実である。実際、小学生の4年生、5年生ともなれば、親の生活の苦労や、親の欠点を醒めた眼で捉える。そこに、少しでも家族の一員として何かしなく� �はとか、自分は○○のようにはなりたくないと考るきっかけがある。ところが、日本の子どもたちは、大人になりたくない、もっと甘えられた頃に戻りたいと望む割合が多い(深谷昌志,深谷和子,望月重信,田村毅,1994年,p.44)。積極的に自分を成長させる自信も、他社会に比べ無い。楽しさを長引かせたい、他の人との基本的な人間関係、協力関係を身につける機会を持てないし、避ける(中西新太郎,2001年.p.80-110)。こうした感情や態度は、子どもたちが家族をどう見て育ったかの結果なのである。

5.むすび
 子どもたちは、消費社会、サービス社会の中にあっても他の選択肢への可能性を持っている。親も家族を構成し家庭を築き上げるにあたり、選択肢を持っている。この選択肢は意志の問題であると同時に社会環境の問題であ� �。しかし、社会環境はこれまで考えられてきたほど合目的的に整備しうるのか、疑問である。機能的なシステム整備には不備がついて回るからである。
まず、目的とする特定の範囲を超えた問題には対処できない。常に扱われない範囲が残される。実際、現実の家族の多様な事情をカバーすることは不可能である。また、そこで補正システムが、それ以前のシステムでの問題を解決することを目的として組み入れられるが、その不完全さも避けられない。さらに、その補正されたシステムを前提とする次世代の新規参入者は、その完全性を図ったシステムに依存して生活することになり、そのシステムが整備される以前の人々が持っていた問題を共有できないため、欲求は高く、システムの不備を見いだす。そして、眼前のシステムの� ��備をさらに優れたシステム整備により乗り越えようとする。また、システムが整備されたところで、本来そこでのサービスを必要としない人たちの参加に掛かる費用の浪費も、必要なシステム整備の足かせになる。こうして、システム整備とその不十分と不備に対する補正は繰り返される。
次に、そもそも機能的なシステムを導入する土壌にはそれ以前の伝統的な仕組みや慣習、観念が残っているが、かといって、旧来の社会関係もしきたりも、名残りはあるものの純然たる形態では残ってはいないという事情がある(野々山,清水,1999年,p.286-288.)。そのため、機能的なシステムと伝統的な仕組みは、それぞれに不備を持ち、互いに齟齬をきたしながら併存、共存することになる。そこで、一方では旧来の社会関係やしきたりの掘り起こ� �と再生が、他方では新しい社会関係やルールの創出が、方向は違うものの合目的的かつ機能的に試みられることになる。「掘り起こし」と「創出」の双方が同時に、試行錯誤を繰り返しながら試みられる。そこでは相互の矛盾や対立も生じる。そして、各々の内部でもシステム化の不完全さを避けられないのである。
合理的かつ機能的に構成すればシステムは整備され、体系化を進めれば完成に近づくという考え方はあろう。しかし現実には、あり得ないと言えよう。子どもたちをめぐる問題を見ると、補正を加え続けて一層の機能的システム化を進めてきたにもかかわらず、というよりも、それによってかえって子どもたちの成長の場が分断される可能性を産み出したと思われる。これは生活場面での「リスク社会化」と言って良か� ��う。社会環境の整備には機能的システム化は避けられない、しかもその不備は避けられないものとして生じる。こうした認識が必要となった。その上で、システム化の方向付けを再検討する必要があるように思われる。
家庭に関する施策を、親にとっては職場、子どもにとっては学校に関する施策との調整を図って施行しようとしても、万全にシステムを整備することは困難であろう。ほころびもついて回る。しかし、そのシステムのほころびに直面した時、他の選択肢への気づきが生まれる可能性がある。現在、その気づきが始まっている。生活力、社会力、自然の中で生きる力、信頼感・愛情、相互協力の新しい型など、社会の構成員として子どもが求められる基本的な要件を模索する試みがある。血縁関係を離れた友人関係、愛 情関係を含みこんだ「ファミリー」の人間関係を基礎とした、安息や創造・精神的成長の場として、家族を捉えようとする人たちがいる。しかしその際、家族の機能を外部化することで良しとする現在の日本社会の傾向が、他社会に比してあまりに偏ったものであることに気づくべきであろう。個人は他者との共同性を通して個人として存在しうるという認識が薄弱な日本社会においては、個人化は、私主義化、私化へと転化してしまっている。こうした状況において、個人間のネットワークで子どもの育つ場を確保できる可能性は、限られたものとなろう。こうしたネットワークを担う個人の成長のためにも、機能の外部化により家族・家庭を空洞化させるのではなく、家族・家庭を様々な場面の応じた共同の活動で満たすこと、複合的� ��機能を果たす総合装置として再構成することが求められるであろう。システム整備はその一環として位置づける。こうした視点の転換が必要であろう。システムの整備をどう方向付けるのか、そのシステムの中でそれをどう生かすのか、すでに身に染まった生活スタイルを改めるのは難しいとしても、対応に迫られているのは確かであろう。


<注>
(1)ジャーナリスティックな記事、評論を含めて枚挙にいとまがないが、ここでは、特に以下を挙げておく。上野千鶴子,鶴見俊輔,中井久夫,中村達也,宮田登,山田太一『シリーズ 変貌する家族 6 家族に侵入する社会』岩波書店,1992年.小浜逸郎,芹沢俊介,湯沢雍彦,高橋玄洋,青木悦,清水真砂子『家族はどこまでゆけるか』JICC出版局,1990年.四方壽雄編著『家族の崩壊』ミネルヴァ書房,1999年.
(2)「子どもの視点」を念頭においた研究として、日本家政学会編『変動する家族』建帛社,1999年,p.21-76を挙げることができるが、社会性の発達という基本的な論点が必ずしも明確ではない。
(3)日本の歴史を通して子ども観、子どもの生活を記述したものとして、金田茂郎『子どもの文化史』大月書店,1975年がある。特に伝統的共同体における子ども組みの様子については、p.61-66を参照のこと。
(4)都市生活における共同性は「コミュニティ形成」「まちづくり」としてテーマ化されている。その実態とあり方に関する実証的研究として、神谷 国弘,中道實編『都市的共同性の社会学』ナカニシヤ出版,1997年を挙げておく。
(5)現在も母娘関係を軸とする援助関係が見られるが、これもすでにかつての「家」に基づく関係の広がりと体系を離れた個人化した家族観に基づいて成り立っている。
(6)戦後日本社会の大きな変容をわかりやすく、興味深くレポートしたものとして、朝日新聞社編『豊かさの中で』朝日新聞社,1995年が挙げられる。その中で、三世代にわたる生活の様子と価値観の変化も整理されている。
(7)家族政策が基本的にどのような方針に基づいてきているのかについては、副田義也,樽川典子編『現代家族と家族政策』ミネルヴァ書房,2000年を参照のこと。
(8)ネットワーク論については、野々山久也,渡辺秀樹編著『家族社会学入門』文化書房博文社,1999年,p.281 -302を参照のこと。しかし、子どもの成長の場という視点は欠けている。

<文献>
朝日新聞学芸部編『家族の風景』朝日新聞社,1985年.
朝日新聞社編『豊かさの中で』朝日新聞社,1995年.
上野千鶴子,鶴見俊輔,中井久夫,中村達也,宮田登,山田太一『シリーズ 変貌する家族 6 家族に侵入する社会』岩波書店,1992年.
大内雅利「農村社会の変動」蓮見音彦,山本英治,高橋明善『日本の社会1 変動する日本 社会』東京大学出版会,1987年,p.103-130,所収.
門脇厚司『子どもの社会力』岩波書店,1999年.
金田茂郎『子どもの文化史』大月書店,1975年.
神谷国弘,中道實編『都市的共同性の社会学』ナカニシヤ出版,1997年.
小浜逸郎,芹沢俊介,湯沢雍彦,高橋玄洋,青木悦,清水真砂子『家族はどこまでゆけるか』
JICC出版局,1990年.
住田正樹「都市と近隣−都市化と子どもの近隣生活」,藤田弘夫,吉原直樹編著『都市・社 会学と人類学からの接近』ミネルヴァ書房,1987年.p.210-225,所収.
関哲夫編『シリーズ・データでわかる1 資料集 男女共同参画社会』ミネルヴァ書房,2001 年.
千石保,飯長喜一郎『日本の小学生 第二版』日本放送出版協会,1985年.
総務庁青少年対策本部編『平成11年度版 青少年白書』大蔵省印刷局,2000年.
総理府編『平成12年度版 男女共同参画白書』大蔵省印刷局,2000年.
副田義也,樽川典子編『現代家族と家族政策』ミネルヴァ書房,2000年.
中西新太郎『思春期の危機を生きる子どもたち』はるか書房,2001年.
日本家政学会編『変動する家族』建帛社,1999年.
日本子どもを守る会編『1999年版 子ども白書』草地文化,1999年.
野々山久也,渡辺秀樹編著『家族社会学入門』文化書房博文社,1999年.
久武綾子,戒能民江,若尾典子,吉田あけみ『年表と図表で読む戦後家族 1945〜96 家族 データブック』有斐閣,1997年(2000年版).
深谷和子,船越恵子「子どもにとっての家族」『モノグラフ・小学生ナウデータ』
Vol.10-11,1990年.
深谷昌志『孤立化する子どもたち』日本放送出版協会1983年.
深谷昌志他,「子どもたちと人間関係」『モノグラフ・小学生ナウ』Vol.14-1,1994年.
深谷昌志,深谷和子,望月重信,田村毅「国際比較調査(4) 家族の中の子どもたち」
『モノグラフ・小学生ナウ』Vol.14-4,1994年.
藤崎宏子編『親と子 交錯するライフコース』ミネルヴァ書房,2000年.
正岡寛司『家族−その社会史と将来−』学文社,1981年.
宮本みち子,岩上真珠,山田昌弘『未婚化社会の親子関係』有斐閣,1997年.
目黒依子「女性問題と女性政策」蓮見音彦,山本英治,高橋明善『日本の社会2 社会問題 と公共政策』東京大学出版会,1987年,p.177-198,所収.
四方壽雄編著『家族の崩壊』ミネルヴァ書房,1999年.
最新版・地球環境白書「新・今『子供』が危ない」学習研究社,1998年.

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